一色清の世の中ウオッチ 略歴

2014年04月25日

捕鯨論争でディスカッション (第42回)

私なら撤退をこう論じます

 4月末から、日本の捕鯨船が北西太平洋で調査捕鯨を始めます。3月末に、国際司法裁判所(ICJ)が「南極海での調査捕鯨は中止しなさい」と日本政府に命令しましたが、北西太平洋は裁判の対象ではないとして、今季も捕鯨を続けることにしたのです。
 日本の捕鯨は、欧米やオーストラリアなどの反捕鯨国から批判され続けています。日本の中にも、捕鯨推進と捕鯨撤退の二つの声があります。就活では、グループディスカッションがよくおこなわれますが、捕鯨問題はその恰好のテーマのように思います。私ならこう考えるという論理を筋道立てて話すことができるかどうかを採用担当者は見ています。

 私は、日本が商業捕鯨から調査捕鯨に切り替えた1980年代、朝日新聞でこの問題の取材を担当しました。以来、関心を持って見続けています。私は、日本の捕鯨推進の論理は苦しいと考えています。グループディスカッションに臨んだつもりで、その理由を書いてみます。ただ、結論が大事なのではなくて、考える筋道が大事ですので、みなさんは私と反対の結論にたって考えてみるのもいいかと思います。

 問題の論点は3つくらいだと思います。
 まず、日本の捕鯨は、商業捕鯨か調査捕鯨か、という論点です。もちろん、日本は調査捕鯨だと主張していますが、ICJも反捕鯨国も「実態は商業捕鯨」としています。1982年、国際捕鯨委員会(IWC)は商業捕鯨の一時中止を決めました。商業捕鯨を続けてきた日本は困り、調査のための捕鯨なら認められる点に目をつけ、続けるための苦肉の策として「調査捕鯨」を打ち出したのです。船も乗組員も商業捕鯨の時とほぼ同じで、捕った鯨の肉はそれまで通り売ります。実態は商業捕鯨とほとんど同じでした。当時、捕鯨に従事していた数百人の人たちの雇用を守ることが政治課題になっていて、看板を掛け替えて雇用を守ろうとしたものだったことは、取材した者なら誰もが感じとっていたと思います。
 そもそも、調査だけが目的なら、どうして日本が遠い南極海までいってやらないといけないのか、そうしたことはIWCがすべきことではないのか。何百頭も殺すことについて、「信用できる統計のために必要」と日本は主張しているが、それならば、どうして捕獲頭数が毎年大きく違うのか、など冷静にみると日本側の主張にはよく分からないところが多々あると思います。

 次の論点ですが、鯨肉を食べるのは日本の食文化だ、という主張です。私はこちらも調査捕鯨継続の根拠とするには弱いと思います。確かに、古来、日本では鯨肉が食べられていました。ただ、日本の沿岸でとれた鯨を、海に面した限られた地域の人たちが食べていたものです。南極海の捕鯨を日本が始めたのは、80年ほど前です。本当に盛んになったのは、たんぱく源として鯨肉が必要になった戦後です。50代以上の人は給食で食べた思い出があるでしょう。ただ、日本人の多くが鯨肉にお世話になったのは、戦後のわずか20年くらいの期間なのです。南極海捕鯨を文化と結びつけるには浅すぎる歴史です。鯨肉は、南極海や北西太平洋の調査捕鯨をやめても、沿岸捕鯨やノルウェーなどからの輸入によって食べることはできます。鯨食文化がそれでなくなるわけではありません。

 「欧米人はあれだけ牛肉を食べているのに、かわいいとか賢いとかいって鯨を問題にするのはおかしい」という欧米人の二重基準をどう考えるかも論点の一つです。ただ、欧米人が問題にしているのは、「野生の哺乳動物を大量に捕ること」だとすれば、論争の中身が変わってきます。つまり、「牛か鯨か」という問題ではなく、「家畜か野生動物か」という問題になるのです。欧米人の主張は一様ではありませんが、「野生の哺乳動物を捕って食べるのが問題」としている人はたくさんいるようです。日本人が「牛肉を食べているのに何だ」と主張しても、相手側の論理とかみ合っていない可能性が大きいのです。
 日本は、IWCを脱退して自由に商業捕鯨を再開することもできます。しかし、これだけ経済がグローバル化している中で、脱退によって受ける政治的、経済的不利益はとても大きなものになるでしょう。だから政府からも脱退の声は出ないのです。「文化の押しつけで理不尽」という気持ちは私も日本人ですので分かりますが、ここは冷静に、調査捕鯨からの撤退を考える時期に来ていると考えるのが妥当ではないでしょうか。