あわない上司との時代を大切に
ところで、私はイチローと肩を並べて(実際は身長差がありますので肩は並んでいませんでしたが)写真に写ったことがあります。ちょっとした自慢です。
ある女性アナウンサーの結婚披露宴に招待されたのですが、その女性アナウンサーがスポーツ担当で、また新郎がスポーツ関係の仕事をしていたため、二人の共通の知り合いとしてイチローも招待されていたのです。披露宴開始前に出席者全員で記念撮影をすることになり、私はたまたま(ちょっとだけ意識的に動いて)イチローの隣に立つことができたというわけです。
私は内心よほど話しかけようかと思ったのですが、「かまってくれるなオーラ」と「こびないオーラ」を感じましたので、残念ながら話すことはできませんでした。私以外の出席者も小声で「イチローだ」というばかりで、遠巻きに憧れの視線を向けていました。披露宴の最中は、目立たない最前列のはしの席にいて、スピーチもなく、気配を消していました。そして、お開きになって見回すと、もう姿は見えませんでした。本物の大スターの近寄りがたい立ち居振る舞いを感じました。
イチローが今あるのはいろんな人との出会いがあるでしょうが、中でも仰木彬監督(故人)との出会いが大きかったと言われています。イチローは、1991年秋のドラフト4位でオリックスに入団しました。当時の監督は元巨人の名二塁手、土井正三さん(故人)でした。新人の92年のシーズンは1軍出場は40試合で主に二軍暮らしでした。二軍ではウェスタンリーグの首位打者となり、ジュニアオールスターのMVPも獲得しました。93年のシーズンも1軍出場は43試合で、2軍生活が中心でした。イチローをなぜ使い続けなかったのかについては、「振り子打法をやめさせようとしたのにイチローがやめなかった。それに土井監督とバッティングコーチが怒ったため」という説が有力です。この時代に基礎固めをしたことがよかったという見方もできますが、結果がすべての世界ですから、土井さんはイチローを評価しなかった監督という損な役回りになりました。でも、その時代も、イチローは黙々と努力を続けていたようです。
93年シーズン終了後、土井さんに代わって監督になった仰木さんはイチローの非凡な才能を高く評価して、それまで鈴木一朗という本名の登録だったのをイチローにして、売り出します。頑固者であろうが何であろうが、若い才能があるなら、場を与えて伸ばそうという考えでした。そしてこの94年シーズンは開幕からフル出場し、210本の安打数の新記録を打ち立てて首位打者になります。ここからイチローの大スターへの道が始まります。
スポーツ紙や週刊誌の記事などによりますと、仰木監督はイチローをかわいがり、イチローも仰木監督を「僕の唯一の師匠」と言っています。仰木さんが監督を外れても、イチローがメジャーリーガーになっても、イチローは仰木さんの話を聞きたがったと言います。
監督と選手は上司と部下。イチローは、使われない二年間の後、自分のことを高く評価してくれる尊敬できる上司に出会って花を咲かせたわけです。
会社に入れば、まず間違いなく上司がいます。部下は上司を選べません。部下がいくら一生懸命やっていても、つらくあたる上司はいます。一方で、自分でも不思議に思うくらい目をかけてくれる上司にあたることもあります。よほど優秀で人間的にも立派な部下なら、どんな上司も評価するでしょうし、よほど駄目な部下なら、どんな上司も評価しないでしょうが、ほとんどの人は、その間にいて、自分には、「あう上司」と「あわない上司」がいることに気づくでしょう。
新入社員で入った最初の上司が「あわない上司」だった場合、会社ってこんなつらいところか、と思うかもしれません。でも大事なのは、腐らないこと、愚痴らないこと、暴れないことです。いきなり「使えないやつ」とか「とんでもないやつ」の烙印を押されてしまっては、なかなか払拭できません。
上司は一生上司ではありません。次は「あう上司」がくるかもしれません。「あわない上司」の下でも、やるべきことをきちんとやり、仕事のスキルを磨き、明るく振る舞っていれば、次の上司が「あう上司」となる可能性は高くなるはずです。イチローのように。
木下藤吉郎は、織田信長から「サル」と呼ばれて無理難題を言われても、一生懸命に応えて、次第に信頼を得ていきます。明智光秀は、無理難題に鬱々とし、本能寺の変で信長を倒しますが、自らも破滅してしまいます。なかなか難しいのですが、新入社員は藤吉郎でいくしかありません。
私は、幸い上司に恵まれました。新入社員で赴任した地方支局の最初の支局長はのびのびと仕事をさせてくれましたし、次に来た支局長は公私ともにいろんなことを教えてくれました。この支局長は80歳を超えましたが、未だに当時の支局員たちが年に一度くらい囲んで飲んでいます。わたしにとっての仰木彬監督でしょうか。