軍艦島で考えた就活の心構え
長崎港から船に揺られて40分も行くと、見えてきます。もとは岩礁だったところを石炭と一緒に出る土(ボタ)で周りを埋め立て、海岸線は数㍍の高さの防潮堤で囲っています。半分人工の島です。南北に約480㍍、東西に約160㍍しかないのですが、最盛期の1950年代には5300人もの人が住んでいました。コンクリート造りの建物は最高で10階建てのものまであって、折り重なるように建っています。横から見ると、本当に軍艦のように見えます。
島で本格的に石炭の採掘がおこなわれるようになったのは1890年(明治23年)からです。以来、1974年(昭和49年)まで何十万人という人が海底を掘り進み、海面下1000㍍を超える深さまで掘り進みました。島には600㍍の深さまで一挙に降りるエレベーターの入り口があります。この入り口に続く階段は真っ黒に煤(すす)けています。靴についた石炭がコンクリートにしみこんだ色だそうです。
島には人々の暮らしもありました。子どもたちは7階建ての小中学校に通いました。狭いながらもグラウンドや海水プールもありました。病院、商店、映画館やパチンコホールもありました。ただ、水は足りず、ほとんどの家には風呂がありませんでした。共同浴場はあったのですが、長い間、海水を沸かした湯を使い、真水は上がり湯だけしか使えなかったそうです。飲み水も制限され、夏などのどが渇いても少しの水で我慢せざるを得ないこともあったそうです。
暮らせば、それなりに楽しいこともあったでしょうが、やはりつらいこと不便なことが多かったことと思います。坑内で命を落とした人もたくさんいたそうです。それでも、わずか40年前まで仕事のためにこの小さな島で多くの人がひしめき合って暮らしていたのです。
こうした先人たちの苦労があって日本は豊かになり、もうこんな過酷な仕事をしなくてもよくなりました。技術の進歩と労賃の上昇によって、日本では肉体的につらい仕事が減ったのです。その代わり、徐々に仕事は複雑な頭脳労働が多くなってきました。肉体には限界がありますが、頭脳は先人が積み上げたものを土台にさらに上積みしていくわけですから、限界がありません。そのため単純な肉体労働から複雑な頭脳労働への変化は、激しい競争社会を生み、精神的ストレスは大きくなっていきます。昔の仕事は大変だったが、今は楽になったとは、一概に言えない状況です。
これから、仕事に就こうという人がまず知っておくべきことは、仕事とはいつの時代も基本的につらいものだということだと思います。もし仕事が楽しくて仕方がないのであれば、お金をもらうのはおかしくて、お金を払ってするものになるはずです。
ただ、つらいことがずっと続くわけではなく、仕事をする中で時々、喜びがあったり、満足感があったりするので、私たちは仕事を続けていけるのです。
「仕事で自己実現する」という言葉を時々聞きます。自分がやりたいことが仕事で実現するならそんないいことはないでしょうが、実際にはそんな仕事に出会えることはめったにありません。仕事にそういう現実的でない夢ばかりを描いていると、現実との落差にがくぜんとして、会社を転々としたり、どこにもない「自分探し」をしてムダな時間を使ったりすることになります。
もちろん、やりたいことを持っていることは大切です。でもそれは、「やれることから始めて、やりたいことに近づけていく」くらいの地に足の着いた考えが必要でしょう。「志は持つが、夢は持たない」ということでしょうか。
1年間連載してきたこのブログは今回の更新で最後となります。ご愛読ありがとうございました。