ニュースのポイント
長い年月をかけてひとつのものを作り上げるという仕事にはロマンを感じます。ホンダがアメリカでつくったジェット機が日本に初めて飛んできました。ホンダの創業者の本田宗一郎氏が「飛行機をつくる」と宣言してから53年、実際に研究に着手してから29年の歳月が流れていました。ついに完成し、間もなくお客さんの手にわたって世界の空を飛ぶことになります。創業者の夢のバトンは後輩たちに引き継がれ、夢が現実となったのです。そんな会社、いいと思いませんか。(朝日新聞教育コーディネーター・一色清)
今日取り上げるのは、1面の「ホンダジェット 日本でお披露目」です。
記事の内容は――ホンダが米国でつくった小型ジェット機「ホンダジェット」が初めて日本に飛来し、23日午後、東京の羽田空港に到着した。機体やエンジンを一から開発し、29年かけ量産にこぎ着けた。数カ月以内に1号機が顧客に引き渡される見込み。ホンダは1986年、創業者・故本田宗一郎氏の悲願だった航空機の研究に着手した。全長13メートルで、最大7人乗り。価格は450万ドル(約5億4000万円)。
(東京本社発行の朝日新聞朝刊最終版から)
就活アドバイス
会社はお金を稼ぐのが第1の使命です。そこは忘れてはならないのですが、目先のお金儲けばかり考えている会社は、仕事をしていても面白くないでしょうし、会社の長期的な成長もないように思います。わたしは、「大きな夢」のある会社はいいと思います。「今は難しいけれど、いずれ必ずこういうことをやるぞ」という思いが社員に共有されている会社です。
ホンダの航空機製造はこの「大きな夢」にあたります。話は70年前の敗戦にさかのぼります。ゼロ戦をつくった当時の日本の航空機産業のレベルは世界でも高いものでしたが、敗戦により、連合軍に製造も研究も禁止されました。航空機を作っていた会社は解散したり業態を変えたりしました。東京大学などにあった航空工学科は廃止されました。この禁止は10年ほど続き、ようやく解除されました。東大や京大の航空工学科も復活しました。
当時オートバイをつくっていた本田宗一郎氏は、飛行機も大好きでした。1962年、本田氏は「国産軽飛行機の設計を募集」という新聞広告を出しました。飛行機をつくるという宣言でした。この広告を見て、大学で航空工学を学んだ人たちがホンダに入ってきます。のちに社長を務めた吉野浩行氏や副社長を務めた入交(いりまじり)昭一郎氏らがそうです。当時、日本の航空産業は解禁されたとはいえ、ボーイングなどアメリカ業界の下請けに過ぎず、自前で航空機をつくろうという機運はありませんでした。だから優秀な大学生が、まだ二輪メーカーに過ぎなかったホンダに飛び込んできたのです。
このあとも航空工学科出の学生が次々にホンダの門をたたきます。ほとんどの航空工学科出の学生は航空機開発には携われず、自動車の開発やマネジメントに力を注ぎ、伊東孝紳現社長のようにホンダの屋台骨を背負うことになります。しかしそうした中、今回のホンダジェットを作り上げた「ホンダ・エアクラフト・カンパニー」の藤野道格(みちまさ)社長(54=写真中央の人物)は、東大航空工学科を出たあとホンダで30年近く航空機開発に関わってきました。本田氏の夢を具体的にひきついできたのが藤野氏なのです。もちろん歴代の経営トップも、お金を持ち出すだけの事業にもかかわらず、夢の実現のために後押しをしてきました。
世界有数の自動車メーカーになったホンダですが、実は飛行機への夢を持ち続けた人たちが大きくした会社だったのです。
ものづくりをしない会社でも、「大きな夢」を持っている会社はあります。アメリカのグーグルのように「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスして使えるようにする」という「大きすぎる夢」を持っている会社もあります。会社のホームページや会社案内などにも「夢」は書かれています。かつてのホンダの飛行機のように、あまりに遠い夢は書かれていないかもしれませんが、そこで働いている人に聞けば分かるでしょう。ぜひ、みなさんが共感できる「夢」のある会社を選んでください。
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