中島隆の輝く中小企業を探して 略歴

2014年10月07日

世界一、おもしろいパンツをつくろうとする会社/後編 (第22回)

 生地がめちゃくちゃ伸びる魔法のストレッチパンツをつくる。身長16メートルの巨人ならはけそうなパンツ(ズボン)をつくって、ギネス記録に認定される。前編では、そんな「バリュープランニング」という会社のおもしろさを紹介しました。

 今回は後編。この会社をつくった社長、井元憲生さん(61)の生き方は、きっと皆さんの参考になると思います。
(まんなかが社長の井元憲生さん、右が後編の最後に登場する福多晴子さん。そして、左が境祥子さん。前編で紹介した「巨人用のパンツ」の写真の左で寝ていたのが、彼女です)

大学にずるずる、アパレル会社にすべりこみ就職

 生まれは、瀬戸内海は淡路島。野球少年、ポジションはピッチャーでした。高校のとき、教師から「大学いくなら、もっと野球うまくなれ。勉強はせんでええ」と言われていました。もちろん井元少年はその指示にしたがうのですが、2年のとき、ひじをこわしてしまいます。野球を断念せざるをえません。ちょこっとだけ勉強して、大阪のある私立大学の経営学部にすすみます。

 同級生たちのおおくが、中小企業経営者の息子でした。だから、井元さんは思うのです。

〈将来、みんな家業をついで社長になる。おれはサラリーマンのままでは終わらない。ぜったい会社をつくって社長になる〉

 いろいろアルバイトをしました。1年留年してアメリカにでも行こうかなと考えもしたけれど、親に言いだせません。就活をせずに、ずるずる過ごしました。卒業に必要な単位をとってしまいました。

〈やばい、就職先を探さなきゃ〉

 井元さんは、枕をとりだしました。もとい、枕がわりにしていた分厚い冊子のページをめくりはじめました。

 その当時、大学4回生(4年生)のもとには、電話帳ぐらい分厚い会社情報の冊子がおくられてきました。インターネットのない時代に、その冊子は重宝しました。ただ、就活をしていなかった井元さんは、それを枕にしていたのです。

 神戸にあるアパレルの会社が、まだ面接をしていることを発見、面接を受けてすべりこみました。営業を担当することになります。
ここまでは、どこにでもありそうな話です。井元さんのチャレンジ精神は、ここからフル回転します。

ふるくて狭いアパート借りてトップ営業マンに

 井元さんはまず、ふるくて狭いアパートを借りました。風呂なし、共同トイレの部屋でした。冬は寒いし、夏は暑い。つまり、部屋にいたくないと思う環境を、わざとつくったのです。

 部屋にいたくないから、営業してまわります。シャツ、ブラウス、スカートなどを車にいっぱいつんで、西日本の各地を走り回りました。神戸のファッションはおしゃれ、というイメージが手伝って、どんどん売れます。品がなくなりそうになったら、会社に連絡し、出張先に商品を宅配便で送ってもらいます。車で走り回って営業、すぐに品切れ、また送ってもらい、品切れになって。そんな日々を送りました。こうすると、あのアパートにほとんど帰らなくていいのです。

 出張だと、ビジネスホテルに泊まれます。部屋は清潔、風呂もあります。エアコンも完備です。

 「あいつ、ほとんど本社に寄りつかんけど、よう仕事してるな」と社内で評判になります。でも、井元さんにとっては、外で営業しているほうが快適なのです。あの部屋に帰りたくないのです。社長賞をもらうほどの敏腕営業マンとなり、5年で課長になりました。

 営業マンとしての井元さんの生き方を、みなさんは参考にしたらいいと思います。もちろん、ちいさい部屋で暮らせ、ということではありません。社会人になったら、自分なりに仕事の工夫をしましょう、ということです。人と同じことをしつつも、だれも見ていないところで工夫する。なんてカッコイイんでしょう。

喪服とタキシードをあわせたら……

 会社の先輩が独立してつくった会社に誘われて、そこに転職しました。

 井元さんのひらめき、チャレンジ精神が発揮されていきます。

 とある日、お葬式と結婚式がかさなりました。井元さんは、喪服としての黒服と、パーティー用のタキシードとをもっていました。
ふつうの黒服とタキシードのおおきな違いは、襟の部分です。質素なのと、派手派手。井元さんは、それぞれの場で着替えたのですが、ここで思いました。

〈同じ黒い服なのだから、一着ですませることができたらいいのに〉

 そしてひらめいたのが、7とおりの着こなしができるスーツでした。えり、そでなどを取りかえれば、「お、あたらしいスーツ買ったの?」なんて言われるのです。

 ときは1990年代はじめ。バブルがはじけて景気は悪く、世の中が節約志向になっていました。大ヒットしました。

 井元さんは、出世していきます。ところが40歳のとき、会社をやめます。常務になっていたのに、です。

 人生80年として、その半分まできたから、というのです。大学生のとき、いずれは会社をつくろうと考えていましたね。いましかない、と思ったのでした。

 そして、ガードルとパンツ(ズボンですよ、念のため)を合体させた商品をつくり、売り出します。歩きやすく、おしりが上がってみえるパンツは、売れに売れます。従業員4人の起業したばかりの会社なのに、売り上げは1億円。そして今があるのです、めでたし、めでたし……。

 では終わりません。会社をつくって1年もたたないうちに、神戸であの惨事がおこるのです。

電話番号7074にこめられた想い

 1995年1月17日におこった阪神大震災。井元さんの会社の商品を保管していた倉庫がこわれ、屋根が雨漏り、在庫はびちゃびちゃに濡れてしまいました。神戸の街は、もう仕事どころではありません。井元さんは倒産を覚悟しました。

井元さんは地域の片づけなどのボランティアをしていました。
冬です。たき火にあたっているおじさんたちに、井元さんは、「何がほしいですか」と聞きました。すると、こんな声が返ってきました。
「あったかい毛布がほしいねん」「あたたかい風呂にはいりたい」「あたたかいメシも食いたいわ」

 井元さんは思いました。

〈アパレルにできることがあるんちゃうか〉

 そして開発したのが、あたたかい下着でした。保温下着がめずらしい時代だったので、売れに売れました。

 起業から4年の1998年。資金がたまりましたので、ふたたびパンツメーカーにもどります。

 徹底的に機能性にこだわりました。どんなパンツがほしいか、消費者にもアンケートをとりました。そしてつくったのが、魔法のストレッチパンツです。

 快適にはけて、歩きやすくて、足が細く見える。おしりがあがって見える。

 そんなパンツをつくっていきます。そして2000年に、神戸にストレッチパンツ専門店「B-Three]の一号店をひらきました。
 「feel better」「fit better」「look better」

 3つのbで、ビースリーです。前編で紹介しましたが、いまや国内におよそ250店、香港やシンガポールにも出店しました。海外出店に力をいれていくことにしています。

 新卒は毎年、8人ほどを採用しています。ベンチャー精神、チャレンジ精神をもっている人材を求めています。パンツの道をきわめ、パンツで世界のリーディングカンパニーになる。そんな思いを共有してくれる人がほしいのだそうです。

「いっしょにパンツ道を極める航海にいきませんか。海には道がありません。大波がくるかもしれません、嵐に翻弄されることもあるかもしれません。でも、いっしょに海原を進みましょう」

 入社して2年、広報を担当する福多晴子さん(23)はいいます。

「うちにはチャレンジ精神がゆたかな人が、たくさんいます。そんな人たちに感化されて、わたしもがんばっています。つねに向上心をもってはたらける会社です」

 バリュープランニングは、起業されてから20年。年商140億円をこえ、本社社員は85人、グループの従業員は1000人をこえます。

 ただし、ずっと変えていないものがあります。それは、電話番号の下4けたです。

 「7074」

 これで、なにもなし、と読みます。
会社が大きくなると、どうしても慢心が芽生えてしまうものです。

「なにもないところからスタートしたんだ、初心をわすれるものか」という井元さんのこだわりです。
(「B-Three」の店内風景)