国会で異例の事態に
国会で、「放送法」という法律を巡るやりとりが注目されています。野党議員が、総務省が作った行政文書を公開したところ、当時、総務省の大臣だった高市早苗経済安全保障担当相が「捏造(ねつぞう)」だと主張しているからです。ふつうは、行政機関が作る文書は、だいたい信頼されています。それを、与党の政治家が「でたらめだ」と言うのは珍しいので、注目されているのです。高市さんが、議員辞職の可能性にも触れているため、しばらく混乱が続きそうですが、そもそも何が問題なのでしょうか? また、将来仕事をするうえでの教訓も考えてみましょう。(教育事業部次長・藤田明人)
(写真・国会で答弁する高市大臣)
戦争中の反省から生まれた放送法
今回のポイントは「放送法」という法律です。何が書かれているか見てみましょう。第一条では、目的の一つに「放送による表現の自由を確保すること」「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」などをあげ、第三条では「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と明記しています。
放送法ができたのは、かつての戦争がきっかけでした。当時はネットやテレビがなく、主な情報源はラジオと新聞でした。政府や軍部は、戦争を有利に進めるためにメディアを管理し、都合のよい情報しか流れないようにしました。太平洋戦争の序盤は、わりと正確な戦況を伝えていましたが、戦況が苦しくなると、戦果を大きく、被害を小さく報道するようになります。1944年にあった「台湾沖航空戦」という戦いでは、日本軍は米軍の空母を19隻撃破したと発表されましたが、実際は1隻も沈んでいませんでした。結果として、国民は、真実をよく知らないまま、敗戦に至りました。
この反省から、戦後、放送の独立性を守るために、放送法ができたのです。また、日本国憲法は「表現の自由」を明確に定めました。つまり大原則としては、各放送局は自由に番組を作ってよく、また、健全な民主主義を守るためにも、そうあるべきなのです。
(写真・1941年、日本が米国や英国と戦争を始めたとき、真珠湾攻撃の戦果についてラジオ放送する海軍の報道担当者。国民の多くは、緒戦の勝利に熱狂した)
「政治的に公平であること」という決まり
ただし、自由には一定の責任が伴います。例えば「表現の自由」といっても、ヘイトスピーチのような、人を傷つける言論を無制限にしてよいわけではありません。特に大勢の人が見る放送は社会への影響が大きく、重い責任があります。放送法は第四条で、放送事業者に対して「公安及び善良な風俗を害しないこと」「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」の4点を求めています。
今回の焦点は、このうちの「政治的に公平であること」です。政治では、保守的な考えから革新的な考え、その中間など様々な意見がありますし、政府・与党と野党は多くの場面で対立します。その時に、どちらかに極端に肩入れするような放送は好ましくない、というわけです。
ただ、基本的には「自由」が大切なので、かつては、政治的な公平さは「放送局の番組全体で判断する」と解釈されていました。ある議論で世論が割れているとき、朝のニュースで賛成意見を多く紹介しても、昼のワイドショーで反対意見がきちんと紹介されていれば、全体としてバランスがとれているのでOK、ということです。このルールであれば、各番組は、ある程度自由に制作できますね。
しかし2015年、総務大臣だった高市さんは、国会で「一つの番組のみでも、極端な場合は公平を確保しているとは認められない」と答弁します。法律は変わらないけれど、解釈を変えたわけです。こうなると、政府・与党も野党も、自らに批判的な特定の番組を名指しでけしからん、と批判できます。番組を作る人は「政治家から批判されたらやりにくいなあ」と感じるでしょう。「極端なことを言うコメンテーターは番組に呼ばないでおこう」という流れにもなります。
今回の文書の内容は、解釈変更に至る過程の生々しい記録です。この中に高市大臣の発言も出ていて、大臣は「そんな事実はない」と強く否定しているのです。
(写真・今回問題になった文書。「取扱厳重注意」と記されている。国会での議論を受けて、総務省もウェブサイトで自ら作成した文書として公開した)
規制・監督官庁という存在
今回の文書を作ったのは、総務省という国の中央官庁です。放送は総務省が担当しています。電波は有限なので、誰でも気軽に放送局を作れるわけではなく、総務省に手続きをして、放送免許を出してもらう必要があります。
中央官庁の存在は、日々暮らしていると、あまり意識することはないでしょう。多くの官庁は東京の霞が関にありますが、一生その建物に入らない人がほとんどかもしれません。ただ、会社に入ると、業種や部署によっては、中央官庁と頻繁に付き合います。例えば、携帯電話会社は総務省、銀行は金融庁、鉄道会社や航空会社は国土交通省、製薬会社は厚生労働省、電力・ガス会社は経済産業省と密接な関係があります。公共性が高い業種では、各企業の自由な活動を原則としつつ、一定の規制がかけられているためです。これらの企業では、関係する法律をよく理解し、自社の戦略を実現するために官庁と交渉したり、情報収集したりすることが大事な場面が多くあります。中には、「政策渉外担当」などの呼び方で、官庁との接触を得意として、複数の会社を転職していく専門職のような人もいます。
(写真・総務省の看板)
「辞任」を口にすることの重さ
私が少し不思議に感じるのは、高市大臣が、議員辞職の可能性まで口にして、文書を強く否定していることです。文書をよく読むと、大臣個人を攻撃しているわけではありません。また、もし内容が本当だと認めても、「表現の自由や放送局の独立性を軽く考えているのではないか」という批判は受けるでしょうが、法律の解釈の話なので、直ちに政治生命にかかわるとも思えません。
にもかかわらず、自らの発言によって、辞める辞めないの話になってしまっています。朝日新聞の記事によると、味方のはずの自民党内からも「『記憶にはない』とか言えばいいのに、頭に血が上って強く反発している」などと、困惑する声が出ているようです。
高市大臣は、2021年の自民党総裁選で一定の票を得るなど、女性初の首相就任を期待する声もある政治家です。今回の件で自ら評価を下げ、キャリアに傷をつけてしまうのは、もったいないなと感じます。
組織で働く人にとって、「辞める」と宣言するのは最後の手段です。仕事を通じてどうしても実現したいことがある時や、許せないことがある時に、辞表を手に迫ることはありうるでしょう。しかし切り札を出すタイミングを間違えると、「あの人はすぐに『辞める』という人だ」と思われてしまいます。
就職すると、いろいろと不満は出てくるかもしれませんが、勝負どころはよく考えることをおすすめします。
(写真・1993年、衆院選で初めて当選して万歳する高市議員。当選前は民放の番組でキャスターを務めていた)
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